2011.06.09

否定とは大切なものを守ること

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芸術テロリスト「Banksy」のアート作品のセンスがヤバすぎる(http://umashika-news.jp/archives/51860218.html)。岩永です。

今日は「そんなの当たり前じゃん」というお話であるワケですが。

違う意見の人がいた時には「立ってる前提が違うのだな」と思って話を聞こうと。

ただ、皆が、

「確固たる前提に立って意見を述べている」

という前提というか、設定といいましょうか、そこに既に無理があるようにも感じるワケでして。。
 
 

『人は何か守るものができたとき、否定をするようになる気がした。』
 <304 Not Modified (通称「サンマルヨン」どうでもいいことを本気で考える場所)より。>

はてなブックマークのコメントで否定から入ってしまい、これはいけないと思い直して修正する。

そんなことが度々あるのですが、そんなときになんで否定しちゃったのかなーって思い直すと、そこに自分にとって大事な意見があって、それを守りたかったんだなって気付いたんですよ。

良く、

「相手を怒らせると、そこに相手にとって大事なものがある」

と言うけれど、そんなに怒らせてばかりいたらできる友達もできなくなってしまうでしょうし、そういうのは日常一緒にいる中で気づいていくことだと思います。

しかし、自分のことだったら自分自身がちょっとでも否定したり怒りを覚えた時になんでそう思ったのか考えることで、自分にとって大事なものが何か発見していくことができるでしょう。

今だったら、

「反原発」「原発推進」「がんばれ」

といったキーワードだけで怒ってしまう人もいるわけで、そういう人は自分がどうして(何を根拠に)そこに否定を覚えるようになったのかを振り返ってみてはいかがでしょう。

理想を言えば、それを文章にしてブログに挙げることで多くの人の目に判定してもらうことをオススメしますが。

「自分がどうしてそう思うようになったのか」

は、自分で分かることでそれを知ることは大切なのですが、否定をしたときにもう一つ、

「他人がどうしてそう思うようになったのか」

も考えるべきだと思うのです。

結果が違うってことは間違っているとは限らないんですね。

その道順を間違える人ってそんなにいません。

普通に論理的に辿れる結論が大半だと思っています。

では何が違うかと考えると、前提が違うんですね。

だから、相手が自分と違う結論にたどり着いたときに、相手の持っている「前提」が何かを考えるんです。

どうしてこの結論にたっているのだろう。

というわけで、次回はみなさんに否定されるようなエントリを書けたら良いなと思います。