2011.03.31
コートジボワールのコト
日本がサッカーチャリティーマッチに湧いた裏で、アフリカの雄 コートジボワールはこんなことになっていた。恥ずかしながら全然知らなかった。
コラム:サッカーが消えた国
過ぎ去りしもの。それは「ドログバ風」のDJによるミキシングが、ビアパーラーの内外で素敵なダンスステップを生み出していた日々。西アフリカで最も安全で、一番活気があったその国は、コートジボワールと呼ばれた。
遠くに消えてしまったもの。それは、アビジャンにあるフェリックス・フフェ・ブワニ・スタジアムへ向かうバスが、カラフルでにぎやかなサッカーファンであふれていた日々。
失われしもの。それは、クラブが練習や試合に向かうために、選手たちをバンへと詰め込んでいた日々。
こうした光景は、もはやコートジボワールから失われてしまった。流れ弾に当たるどころか、どこから打たれてどこへ向かうかも分からないミサイルに、吹き飛ばされるかもしれないのだ。素晴らしいゴールを決め、ヨーロッパのビッグクラブで大金を稼ぐ自国のトッププレーヤーにまつわる噂が、かつては街中にあふれていた。だが今やそれらは、どうやって国を逃げ出すか、どこへ向かうべきかといった話に取って代わられた。
ディディエ・ドログバは、チェルシーの次の試合でどうなるか。ジェルヴィーニョはリヴァプールに移籍するのか。そんな話は、もう人々の口から出てこない。サッカーの話は、人々の話題の最下層へ“降格”した。繰り返し語られるのは、いかに生き延びるかという話ばかり。苦しい時間は厳しさを増し、金と食料、医療は、ワールドカップのゴールのように希少なものとなっている。
昨年末の大統領選挙をきっかけに騒乱が始まると、コートジボワール生まれの私の妻は安全な場所に逃げようと懇願した。この国で16年以上もフリーランスとして過ごした私も、移動すべき時が来たことを悟った。
絶えることのない銃声が、私にアイディアを、我が子たちに平和に包まれた眠りをもたらす夜を奪い去った。私も眠れない夜が続いた。銃撃が眠りを妨げた後の明け方には、いつも窓外に死体を見つける。そんなことを3歳の娘に説明するのに、ほとほと疲れた。「パパ、なんであの人たちは体に穴が開いて、血だらけになっているの?」。あの人たちは、もう二度と立ったり歩いたりできないんだよ。私はそう話し続けた。
家族は4人。私と妻、3歳と11カ月の子供2人だ。動き始める前にはプランが必要だったが、ほかの何千という人々と同様に、内戦を前にそんなことも言っていられなかった。最も近い安全な場所はガーナだが、交通費がない。銀行は2カ月前に閉鎖された。金を受け取る手段が存在しない。
カラーテレビとラップトップパソコンを売ろうと決めたが、誰が金を持っているというのか? 妻は村から村、街から街へと歩いて移動することを提案した。服や宝石を道すがらに売って、食費に換えればいい、と。リスキーではあったが、目に見える死が近づくのを待ち受けるよりも、不安の道でも進んでいくという彼女の決定を受け入れた。
何とかバス代を工面して乗車したときには、疲れた子供たちを甘やかした。そうしなければ、心が不安定になっている子供たちが騒ぎ出し、病院へたどり着くことも諦めなければならなくなるかもしれない。もちろん、誰も視線を払いなどはしないのだが。
6度昼を迎え、6度目の夜を越え、熱に浮かされた旅の果てに、ガーナへとたどり着いた。妻は安どの深いため息を吐き出し、決死の逃避行の提案を受け入れた私に、感謝の言葉を贈ってくれた。「食料と水、それに家を失っても、何日か数週間は生き延びられる。でも、銃弾に出くわしたら、1秒しかもたない」。妻の話を聞きながら、アクラ市中央のバス停留場に座り込んだ私の目は、バンから吐き出されるコートジボワールの人々に注がれていた。荷物はつぶれてほこりだらけになり、「ボンジュール」ではなく「グッドモーニング」とあいさつするように気をつけていた。
一人のサッカー選手に出会った。アビジャンのマルコリー地区にあるスタッド・シャンプルが輝いていた日々、よくこのMFのプレーを見たものだった。彼もアクラへと長い道のりを旅してきた。ただし、私たちと違ったのは、クラブが選手たちに少しばかりの逃避用資金を渡していたことだ。
「ここにはクラブを探しにきたんだ。コートジボワールには、もう戻らない」。彼はそう言った。「もうサッカーができないとしても、生き延びたいんだ」。彼の言葉は、働きに出ていたある朝に、銃弾に倒れたある若いコートジボワール人選手のことを思い出させた。
バスステーションには、30歳ちょっと過ぎの女性がいた。年のほどは5歳から7歳くらいといった娘さんを2人連れていた。眠りにつく家もなく、行くべき場所もなく、このステーションを4日間もうろついていた。ガーナでは、最小クラスのワンルームの部屋を手に入れるにも、3年を過ごしてからでなくてはならない。バッグ2つに詰めた米を売っても、ここまでの旅費にしかならなかった難民は、どうすればいいというのか?
聞けば、アボボから来たのだという。アビジャンの一地区で、政府軍と反政府勢力の闘争で数百人の命が奪われ、50万人が逃げた出した地区である。
「体育教師をしていた夫は、流れ弾に当たって命を落としました。銃弾が飛び交い続けていて、埋葬することさえできませんでした。生き延びるにも、逃げ出すにも、最大級のリスクと背中合わせでした。家の近くのPK18地区では、戦闘による何百という死体が腐臭を発していて、私と娘たちは息ができませんでした。折り重なる遺体を回収する人はなく、その中には私の…、私の夫も含まれていたはずです…」
何とかそう話すと、彼女は泣き崩れた。
何の救いの手も差し伸べることができない。なけなしの5セディ(約3ドル50セント)を探し出して、彼女に渡した。彼女は笑みをつくって感謝すると、再び会えるのはいつだろうと尋ねた。私は答えられなかった。住処がないのは、私も同じだからだ。
千人単位のコートジボワール軍がガーナにも押し寄せていた。おかげでエレファンツ(コートジボワール代表の愛称)も3月27日のベナン戦を行うために、アクラへの移動を余儀なくされた。数え切れないほどのコートジボワール難民は、国外で家もなく、金も希望もない状態である。同じような人間が増え続けている中で、誰がそんな試合のことを気にするというのか。
1990年代に、ジョージ・ウェアがアフリカ西部のリベリア難民救済のために働いていたことを思い出す。政治と傲慢、強欲によって父祖の地を追われた汚れなき魂に、船とトラック満載の食料、薬、衣料を届けた。
今こそディディエ・ドログバやトゥーレ兄弟といった選手たちは、これまで受けてきた愛情をファンへと還元すべきときである。平和が満ち、サッカーが愛おしくてたまらなかった、あの時代に受けた愛情を。
だが今のところ、世界はこういう形で肉体に刻まれる痛みとトラウマを忘れてしまったようである。
文/キングスリー・コボ