2011.05.19
自力復興
ある人が、ほとんどの本は(思想は)、自己中心的だ、と言った。
「ものを見る時、どうしても人間は自分から見る。だけど、見えないものがどこにあるかは、気配で感じることができる。その気配がわからない人は、ものを考えることがほんとうにはできない人なのだ」と。
なんか深い言葉。岩永です。
アフガニスタン、シエラレオネ、東ティモールで0からの国作りに携わってきた伊勢崎賢治さんへのインタビュー記事。
基本的に、義捐金というのは小規模な災害の際に、その機能をより発揮するする仕組みだと。
しかし、今回の被害はあまりにも甚大であったため、義捐金の即効性がまずここで失われた。
「復興」とは、簡単に言うと、被災者、そしてそれを取り巻く共同体をいかに早く経済活動に巻き込んでいくか、これに尽きると。
避難所で被災者が炊き出しの列に並び続けるより、キャッシュを保持して、ちょっと足を伸ばして被災を免れたコンビニに買い行ける状況(もちろん、それが物理的にできない地域はありますが)をいかにつくるかだと。
義捐金はこういったニーズに見事に対応できなかったと。
復興とは経済復興であり、持続的発展は住民自身が担わなくてはならない。
それには全ての労働機会を住民に思い切って丸投げし、どんな復興事業でも住民が自力で立ち上がる機会づくりという観点から見なければならないという。
「被災した可哀想な人たちを働かせるなんて」
という同情はやむを得ないことではあるが、被災者社会の自立的な復興を冷静な目で見るという視点も大切だと。
国際協力の世界では、容易に比較したら不謹慎だけど、もっと悲惨な状況があるんだと。
2004年のスマトラ沖巨大地震によるインドネシア、アチェの津波災害の犠牲者は20万人。
2010年のハイチ地震では31万人。
東日本大災害と桁が一つ違うのだと。
そんな過酷な状況のよれよれの人たちにでも、国際社会は「自分の足で立て」と、復興に「住民参加」を迫るのだと。
国際社会では、住民の就労機会を損なわないために、ボランティアの派遣も、本当に緊急で現地に存在しない専門性以外は、自粛するそうです。
キツイ言い方をすると、いまだにボランティアだ、ボランティアだと言っているのはどうだろうかと。
そろそろ被災者自身の間からもそういう声が上がってくるだろうと。
すでに被災者でありながら立ち上がって進もうとされている方も多くいらっしゃいますし、
仕組みさえ作ってくれれば、後は自分達でやるからってコトか。
それが一番良いと。
被災者でもない自分は、どうだろう。
こんなコトじゃダメだなーと、、マジ気合い入れ直してこー!