2011.05.29
オトタケからのメッセージ
チャンピオンズリーグ、バルセロナ優勝。ちょっとバルサ強杉…。岩永です。
乙武洋匡さんのブログ「オトタケからのメッセージ」
「イヤならメディアに出るな」
という声もあるんでしょうが、どんな立場であろうと最低限の思いやりは必要。
それは生きる上でのマナーだ。
「自分がされてイヤなことを人にするな。」
それは、小学生でも分かる、すごく簡単で当たり前のこと。
『2001.05.27 僕は元気です』
父の葬儀から2週間が経ちました。
大丈夫。僕は元気です。
何の前触れもなく突然の別れが訪れたなら、言いようのない悲しみや悲しみを通り越した憤りまで感じてしまうんだろうけど、父は7年もの長い間、僕らに覚悟を決める猶予を与えてくれた。
本人にとってはツラい7年だったと思うけど、残される側にとっては父に別れを告げるための貴重な7年だったと思う。
悲しい気持ちはあるけれど、悔いはない。
「あれもしてあげれば良かった。これもしてあげれば良かった」
とよく言うけれど、この7年の間に、思いつく限りのことはしてあげられたと思う。
父も最期まで頑張ったし、母もよく頑張った。
海外出張や地方取材で東京を離れることの多い僕も、父の最期に立ち会うことができた。
何も思い残すことはない。
僕は、とても元気だった。
多くの友人、そしてみんなからも「気を落とさずに」という励ましのメールや電報をもらったけど、僕はとても元気だった。
こう書くと、とても不謹慎に思われるかもしれないけど、逆にパワーが出てきたんだ。
父の死によって。
葬儀の前、棺の中に父の愛用品とかを入れるんだけど、僕は『Number』を1冊入れた。
いちばん上手く書けた、いちばん気に入ってる号を、そのページを開いて、そっと入れた。
「頑張るからな」
そう、心で語りかけながら。
急にこみ上げてきた。
父との別れに際して涙は見せまいと思ってたけど、視界が滲んでいくのがわかった。
「もう、恥ずかしい記事は書けないな」
心からそう思ったよ。
これからは、父が見てる。
時間もたっぷりあるだろうから、しっかりと熟読されちゃう。
恥ずかしい記事は書けないよ。
しっかりしなきゃ。
前々回のメールで、「何だか元気がない」と書いたけど、父の死が、むしろ浮上のきっかけを与えてくれた。
完全復活となるまでは、もう少し時間が掛かりそうだけど、何かいい感じだよ。
文章も、いい感じ。
まだ納得のいくような原稿が書けているわけではないんだけど、久しぶりに「書きたい」という欲求が湧いてきた。
もう少し、もう少しだと思う。あとチョット、待っててね。
ここで終われたら気持ちがいいんだけど、今日はもう少し書かせてほしい。
相も変わらず、マスコミへの愚痴なんだけどさ。
父の葬儀の日、僕は信念を曲げた。
自分自身を裏切った。
自らの哲学に反して、記者会見を開いた。
胸を切り裂かれる思いで。なぜ、そんなことをしたのか。
答えは簡単。家族を守るため。
どこから嗅ぎ付けたのか、通夜、告別式ともに、多くのカメラが集まった。
敷地内への立ち入りは防いだものの、望遠レンズで遠くから狙い、僕はもちろん、母や、私の妻を撮影すべく躍起になっていた。
僕は、いい。
自らの意思でメディアに登場している人間だし、こうなることは予想がついた。
本当ならば許されるべきことではないけれど、まだ我慢ができる。
だが、家族は許せない。
特に、最愛の夫を亡くし、悲嘆に暮れる母にレンズを向ける彼らが許せなかった。
人間として、間違っているだろう。
仕事とはいえ。
カメラに狙われることのないよう、母にはなるべく屋内にいてもらったのだが、それでも寺への出入りの際や出棺時には表へ出なければならない。
撮ろうと思えば、いくらでも撮れる。僕は、決心した。
「俺が記者会見する代わりに、母や妻の撮影、取材は一切しないという約束をしてもらえるかな」
事務所のスタッフに相談した。
後は、彼らがやってくれた。
その際、ひとつ条件を出した。
取材陣はきちんとした喪服を着てくるように、と。
葬儀を終え、記者会見へと向かった私は愕然とした。
数十人と集まった取材陣の中で、誰ひとりとして喪服を着てくれた人はいなかった。
ワイドショーのリポーターはかろうじてジャケットを羽織っていたが、週刊誌やスポーツ紙の記者は実にラフな格好のままだった。
悔しくて仕方がない。
本当に悔しいよ。
愛する父の死をメシのネタにされ、そこに協力させられ、心はズタズタに引き裂かれた。
父を侮辱されたようで許せなかった。
この屈辱は、生涯忘れることはない。