2011.05.30
ロストジェネレーション
一緒アレッて思う、画面の後ろが透けて見える写真。岩永です。
他者からの評価に振り回されてきたロストジェネレーション。
自分はたしかに、めちゃめちゃ優秀な若者ではないかもしれない。
しかし、そこまで無能でも無いハズだと。
なぜ、そこまで散々に言われる必要があるのかと。
価値基準を外側に置くことをやめたロストジェネレーション。
新たな価値基準を持った彼らは、どんな未来を描き、どのような社会の在り方を示していくのだろう。
若者はダメだと言う人もいる。
しかし、自分はそれ程有能であったか?
昨日のBLOGOSでの記事。
『二代目ロストジェネレーションが失なったもの。望み。そして、 僕らは何からはじめるべきか』
willyさんの記事 「ロストジェネレーションが失なったもの」(http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-502.html)や、
はてな匿名ダイアリーで話題になった記事 「就職王が贈る、新入社員が覚えておくべき10の事柄」(http://anond.hatelabo.jp/20110429004257)
を読んで、いろんなコトを考えた。
僕はツイッター先行で、こうして今ブログをやることになったのだけれど、ツイッターはじめたころは、今みたいな社会派(笑)ツイートなんかまるでしなかったのに、どうしてこうなったんだろう。
と思いを馳せた。
ああ、就活が、僕を変えてしまったんだな、と思い出した。
自分自身の行き詰まり感を感じたのは、このときがはじめてだったと言ってもいいかもしれない。
僕は地方のさりとて優秀でない公立小学校から高校出身で、当時の同級生たちのいい知らせを、あまり耳にしたことはない。
進学した大学は、東京のそこそこ有名な大学だったが、それでも、自分の将来に不安や苦痛を抱えながら、卒業して行った学友は少なくなかった。
就職氷河期の再来。
世間ではそういわれていた。
実際のところ、僕自身も、就職活動は上手くいかなかった。
不採用通知がたび重なって、自分の居場所は、この国の、この社会にはないのか、なんて、オオゲサな自己否定をこじらせる日々がはじまった。
本当に苦しくなって、誰に相談できるわけでもなく、ひっそりと1ヶ月くらい、就職活動そのものをやめてしまったときもあった。そのとき何をしていたのかといえば、わけもわからず簿記や中国語をやっていた。
ははは。自己肯定が難しい時代になってきたな、なんて、ぼんやりと思った。
そのころは、ツイッターやブログもやっていなくて(そもそもツイッターは流行ってすらいなかった)、大学に行っても、友達はみんなシューカツをしていたから、大学にはいなかった。
誰とも会えない日々が続いたので、こんなに、社会に受け容れられない、能力的に社会に受け容れられるはずもないのは、自分だけなのだろうか。
自問の日々だった(要するに、あんまり友達がいなかったのだ)。
ツイッターをはじめてしばらくした頃、僕はようやく内定を得た。
それが、6月の下旬くらいだっただろうか。
それでも、もうすっかり、自分を肯定できなくなっていた。
なんで自分が内定できたのかも、実は働き始めた今でもよくわかっていない。
就職難の話題が、テレビでもネットでも話題になっていた。
「不況による大手志向が若者の就職難に拍車をかけている」とか「大学生が昔よりずっと増えたせいで、過剰供給になっている」とか「バカな学生が増えて、企業はほしがらない。中国人学生の方がずっと優秀」とか、いろんなことが言われていた。
おかしいな、と思った。
だって、僕は、たしかにめちゃくちゃ優秀な若者とはいえないが、一方でそこまで逸脱したはみだし者だった経験もないし、大学受験だって、最善をつくしたはずだ。
どうしてこんな、散々に言われているんだろう、と思った。
日本の経済状況や社会情勢と照らし合わせて自分の将来を選んだかといえば、そこまでのことはしなかったことは認めるが、リーマンショックや急速なグローバル化を、先見の明をもって対応できた若者なんて、どれだけいたんだろう。
僕らは、社会が求めるほどには優秀ではなかったかもしれないが、社会がこき下ろすほどに無能だったとは、とても思えなかった。
社会の動きを、先手先手で感じ取れなかったのが、それは個人の努力や能力の問題ということもできるが、本当にそれだけなのか。
いや、確かに、全部が社会のせいではないのはわかってる。
そのとおりだ。それは間違いじゃない。
けれど、まだ働いたこともない、力もない若者の自助努力がたりなかったから、といって、それで全部片付けてしまってもいいのか。
ああ、そういえば。
僕たちがロストジェネレーションになる前の、先代のロスジェネたちも、僕たちと同じようなことを言われていたな、と思い出した。
それなりに頑張ってきた人たちが、報われもしなかったのは、何も僕たちがはじめてでもなかった。
なら、ロストジェネレーション、失われた世代は、何を失ったのだろうか、と思った。
――何も失っていない。
僕はそう思う。
何も失っていない。
失うためには、その前に得ておかないといけないからだ。
ロストジェネレーションは、何かを失ったわけではないが、何も得てはいない。
冒頭で紹介したWillyさんの記事で、ロストジェネレーションは「僕らはこれまでの世代とはなんか違う」ということに気づいていたと書いていた。
同感だ。
では、具体的に何が違うのか。
既存の価値観や社会観に、僕らはもう乗ることはできないんじゃないか。
それらに乗るには、もう僕らの世代は社会的に少数派になりすぎたような気がするし、そもそもその価値観や社会観そのものが、時代遅れのような気がしてならない。
従順に生きて、臥薪嘗胆40年。
その後で、次の若い世代の成果を、後払いで搾取できるよ
うな構造は、僕たちにはもう望めないのではないか。
既存の価値観や社会観といった、レールのような枠組みからはずされた(はずれた)僕たちを、他人の評価、たとえば世間体と呼ばれるようなものが、苦しめていたのかもしれない。
大企業の正社員の総合職でなければ、社会的なステータスとして望ましくないような風潮。
電車の広告をみれば「高年収企業ランキング」、就職サイトを見れば「人気企業ベスト50」。
もううんざりだ。
みんながそう思っているはずだ。
けれど、世間体だけじゃなくて、じっさいに国が用意してきた社会保障や福祉は、大企業総合職正社員を前提にしているように思えた。
本当のことをいえば、企業が上場しているから、とか、ランキング上位の常連だから、とかいう他者評価基準で、自分のありようを決めずに、自分らしく生きることに肯定的になれるかどうかが、大事なんだと思う。
僕をふくめ、多くの人が、最初はそれを失敗する。
ぼくは、失敗したままでは嫌だ。
僕たち若者が何からはじめるべきか、といえば、他者評価のなかにばかり、自己を位置づけるのをやめよう、ってことじゃないかな。
シグナリングとしての大学や企業社会は潰れる。
いや、潰れなければならない。
みんながそう言ってるから、とか、世間がそう思ってるから、という原理原則は、もう次の世代にはいらない。
自分で考えて、やらせてくれる場所が必要だ。
僕らは今までだって、やれることはやってきたはずだ。
少しも気を緩めずに、ロボットのように前進し続ける人なんていないのだ。
たまにだらだらと休憩したって、ちょっと寄り道して遊んだ事だって、あったはずだ。
それらを含めて、僕らは最善を尽くしてきたんだ。
そうした今までの自分を、肯定していいのだと思う。
誰かがそういっているから、とか、世間ではそういうのがいいとされているから、とか、そういうことを評価基準におくのはやめよう。
僕らは、そういうのに、もう十分に振り回されてきたように思う。
価値基準を、外側におかずに、自分の中につくるってことは、並大抵のことではないと思う。
けれど、外側に価値基準がある限り、僕らは不安にさらされたり、不当な評価を下されたりすることで、苦しみ続けなければならないと思う。
ロストジェネレーションと、そうでない世代の差は、価値基準が外側にあることで、厚遇されるのか、冷遇されるのか、その違いにあるではないか。
ロストジェネレーションは、外側の価値基準からの肯定的評価を失った。
けれど、それは、そうした旧来の価値観念と訣別して、自分のことを考えて生きていくことができる時代の訪れともなると思う。
他人の言葉や、他人の評価に耳を貸して、自分のことを否定するのは、もうやめにしよう。
僕らは、僕らが好きなように生きていいはずだ。