2011.06.01

震災刈り

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全国理容連合会(東京都渋谷区)は31日、ドライヤーいらずで節電効果があり、元気も出てくるというヘアスタイル「スマイル・ヘア」を発表した。

関東大震災後に流行した「震災刈り」を現代風にアレンジした。

岩永です。

ジャパンビジネスプレスでの、相馬市長へのインタビュー記事。

このインタビューが素晴らしい。

この市長ホントのリーダーだな。

「大まかな方向性はオレが決める。

細かいコトは各自の判断で頼む。

責任はオレが持つ。

全員一丸となって働こう。

全員のために。

だから、ワガママ言うヤツにはオレは怒るぞ。怒鳴り散らすぞ。」

圧倒的なリーダーシップ。

『死なせてしまった消防団員たちの遺志を継ぐ』(立谷秀清・相馬市長インタビュー)

立谷市長には、完全に体に染み付いているリーダーシップを感じた。

実際、相馬市では1512世帯が津波の被害を受けたが、被害を受けた地区の約5200人の住民のうち、9割の人々が一命を取りとめている。

 
今回の大震災では大きな津波の被害を受けた東北地方の市町村の中で、人命を救えたという意味では圧倒的な割合である。

立谷市長の迅速で的確な指示が功を奏した格好だ。

その後は本文にあるように、震災発生の翌日、3月12日午前3時までに考えられることはほとんどすべて盛り込んだ復旧プランを作り上げ、市役所の人たちや消防団員、住民がやるべきことを決め、市が一丸となって復旧に乗り出した。

 
インタビューのために市役所を訪れて強く印象に残ったのは、市役所で働く人たちと市長とのコミュニケーションの良さだった。

細かいことまで指示しなくても、市役所の方々は阿吽の呼吸で自ら判断しててきぱきと動いていく。

 
「リーダーとは大きな方向性を打ち出す人のこと」と立谷市長は言う。

そして、市役所の職員たちとのコミュニケーションには非常によく気を使う。

(ココからインタビュー)

リーダーシップなんていう立派なものじゃないですよ。

我々はみんな素人。

所詮、地方公務員、地方の首長だから、こんな震災対応に慣れているわけじゃない。

みんなで知恵を出し合って、必死にやってきただけです。

震災直後にやらなければならないことは、とにかく「次の死者を出さない」ということに尽きる。

今はある程度、そこは担保できる状態になったから、これからは復興です。

 震災発生から2カ月余り、「復興とは何か」ということをずっと考えてきました。

非常に漠然とした言い方になるかもしれないけれど、結局、被災者がそれぞれの人生計画を立てられるようになることが復興だろうと思っています。

口で言うのは簡単でも、実現するのは難しい。

ただ、相馬市では、被災した翌朝3時に大方針を作ったんです。

直後にやらなければならないことと、復興に向けて今からやらなければならないことを1枚の紙にまとめて、誰でも分かるようにした。

だいたいレールを敷いたので、その線に沿って突き進むだけです。

[震災翌朝にまとめた1枚の紙]

 
すぐやらなければならない短期的な対応は、生存者の支援や行方不明者の捜索、道路の確保、遺体安置所の手配など。

孤立者がいるとヘリコプターの手配をしろとか、道路の確保のために建設会社に言って重機を押さえろとか、避難者のために炊き出しや毛布が必要だとか、そういったことです。

復興に向けてやらなければならないことは、例えば瓦礫撤去。

震災翌朝から始めるにしても、撤去した瓦礫の置き場所を探さないといけない。

それから、空きアパートを全部押さえて、仮設住宅の場所を確保する。

今晩中に仮設住宅の場所をある程度面積を出して、明日の朝には国土交通省に申し込め、と指示を出しました。

これだけ大規模な震災である以上、この段階で仮設住宅の場所にせよ、棺おけにせよ、すべて競争になることは分かっていましたから。

生活資金、見舞金みたいなことも考え、被災して3、4日目から1人4万円ずつ配りました。

その時、ただ配るだけではなく、

「あなた今、どこで何をやっていますか、連絡先はどこですか」と聞く。

お金がもらえるから、みんな申請に来るでしょう。
 

それをデータベースにするわけです。

このデータが実は貴重なんです。

相馬市の被災の状況が手に取るように分かるようになるわけですから。
 

やらなければならないことを僕が決めました。

その先は、有機的に動くために役所の全員が1つの方向に向かってやるぞと言って、各課に仕事を割り振った。

私が果たした役目は監督ですね。
 

想定外のファクターが原発でした。

原発騒ぎによって敷いた路線がズレてしまわないよう注力しました。

例えば、国から避難命令が出ない限り僕らはここで頑張る、と。

そうすると、薬がないとか、生活物資が足りないとか、色々と問題が出てくる。

それをみんなで解決していくのが災害対策なんだろうと思います。

住民はみんな不安になっているけど、多少の不安であったら放っておけばいい。

例えば、僕が避難所に行くと、必ず不平不満や文句を言う人が出てくるんですよ。
 

でも、そんなことをいちいち聞いていたら大変です。

だから、不平不満を言われたら僕は怒ることにしているんです。
 

「お前らに言われるようなことはない。お前ら、ここで寝ているんだろ。オレは被災対策でこれだけやっているんだぞ」って。

だって、精一杯やっていて、もうこれ以上のことはできません。

それに住民の不満をすべて聞いていたら、大きな目標を見失ってしまいますから。

[ありがた迷惑な善意]

この集団で一体となって災害処理と復興をやっていくことを決めたので、相馬で仕事する限りは、全部、対策本部の指示に従ってもらっています。

ボランティアや専門家など、色々な仕事をしたいとかいう人が来るけれど、ここで仕事をする限りは我々の指示に従ってもらい、役に立たない人には帰ってもらう。
 

善意だから断るのは難しいんですけど、本当に余計なことをする人がいるんです。

避難所でアンケートを配って、その中に「原子力は心配だ」と書いてあると、その人たちに原子力の講義をしましょう、と。これは私は許さない。

やるんだったら市民全員にやれ、と。
 

ある政治家がどこかの避難所で「何が欲しいですか」と聞いて、洗濯機という声があったので洗濯機を送ってきた。これも許さない。

 
洗濯機を配るのであれば、すべての避難所に配らなければならない。

全体が見えていない人たちが一部の人だけに勝手なサービスをするというのが、一番困るんです。
 

炊き出しにちょこっと来てくれる人が、ずっと面倒を見てくれるかというと、そうじゃない。

やってくれるのなら、市に話を持ってきてもらいたい。

そうすれば、昨日はこっちで炊き出しがあったから今日は別の場所に、といった具合に振り分けられますから。
 

みんな自分の行きやすい所ばかりに行くから、そこはメタボになってしまうんです。

メタボで贅沢で言うことを聞かない連中になってしまう。

地元のためを思うのであれば、相馬市に一言断ってやってほしいと思います。

[怒鳴りまくるけど、本気で怒っている余裕なんかない]

私は周囲に止められるくらいに怒鳴りまくるんだけど、実は演技なんです。

本当には怒れません。

そんな余裕なんてありませんよ。

「市長が怒るから、ちゃんとやれ」ということにしないといけないから、あえて性格異常者になっている。
 

「あいつが言いだしたら大変だ」ということにしておかないと動かないから、市長がカンカンに怒るしかない。

でも、本当に怒る余裕なんてどこにもないんです。
 

やらなければならないことを挙げれば、キリがないんですよ。

 
例えば漁業の再生。

先日は相馬で「原釜元気朝市」というのをやった。

地震のあと、漁師たちはみんな港に向かったんですよ。
 

自分の船のエンジンをかけて津波に向かって走った。

セーフのヤツもいるし、死んじゃったヤツもいる。

命をかけて船を守った。

なぜかというと、みんなローンを抱えているからです。

[相馬のことは相馬が一番分かっている]

そのローンのある人たちに、今なにバカなことを言っているかというと、漁を再開するのに網がない、だから網を買うのに利子補給をしますよ、と。
 

でも、もともとローンがあるから二重債務になってしまうんです。

だから、本当は網を現物でくれないといけない。

3分の2を助成するとか、そういう知恵がない。

 
やはり、相馬のことは相馬市が一番分かっている。

だから、相馬市のことは相馬市でやるしかない。

地方分権論になるんだけれど、結局、地方政府なんですよ。

日本は地方政府と中央政府でできているんです。
 

県は広域自治体であって、国と相馬市の間に支援すべき存在として入っている。

今後、そういう感覚に立って県政をやっているところと、やっていないところの差が出てくるでしょうね。

 
これから、とにかく私の責任でやらなければならないことは、遺児孤児に生活支援金を出すことです。

震災直後の津波で、磯部という集落で大勢の住民が亡くなったんですが、実はその際の避難誘導で10人の消防団員を死なせてしまったんです。

[死なせてしまった10人の消防団員]

3月11日の午後2時46分に揺れだしてすぐ対策本部を立ち上げ、まず、内陸部は倒壊家屋の調査をして下敷きになっている人がいたら助けろ、海の方は津波が来るかもしれないから避難させろと指示を出した。
 

磯部は高台から相当距離があるから、避難誘導はきっと大変だったと思います。

だけど、果敢に向かったんです、彼らは。
 

するとその後、続々と津波の情報が入ってくる。

「6号バイパスまで波が来ている」
という報告があって、最初は
「何をバカなこと言っているんだ」
と思ったくらい、信じられない状況でした。

そこで磯部に聞いてみろと言ったら、全く連絡がつかない。

結局、磯部では消防団員9人が命を落としました。

消防団の車が2台あって、車の中で発見された人もいれば、近くで発見された人もいた。

バラバラに集落を回って、「逃げろ、逃げろ」と誘導したんですね。
 

消防団の車に乗って逃げたら逃げられたのに、最後まで仕事したんです、きっと。

多分、波が見えた時は覚悟したんだろうな。。
 

後から話を聞くと、もう本当に胸が苦しくなります。

子供たちが「父ちゃん、危ないから一緒に逃げるべ」と言ったのに、「ダメだ、俺仕事だから行かないといけない」と言って出ていって死んじゃった。

親が止めたりしたり。

彼らは民間のボランティアだから、職業でもなんでもない。

ただ郷土愛だけで消防団をやっていて、その郷土愛に殉じたんです。

 
彼らが頑張ったおかげで、相馬市は被災人口に対して死んだ人が1割で済んだ。

頑張ったけど死んでしまった。

対策本部長として「逃がせ」と命令したのは俺だから、俺の責任です。

[47人の子供たちを大学まで出したい]

 
亡くなった連中は何を思っただろうな、と色々と考えました。

みんな、30代、40過ぎくらいの連中だから、やっぱり残した子供たちのことを考えただろうな、と。

そこで亡くなった消防団員に子供が何人いるか調べたら、11人いた。

そのうち2人は18歳。

それより下が9人。

親の代わりはできないけれど、この子たちのために何かしなければならない。

親が生きていたらきっと、子供にちゃんと育ってほしい、強く生きてほしいと考えるはず。

そう考えると、やってあげなければならないのは、やはり教育なんです。
 

それで、まず子供たちが18歳になるまで月々3万円を支給する生活支援金条例を作ることにしました。

特に根拠はないけど、離婚した親が奥さんに渡す額がだいたい3万だって言うから、勝手に3万円と決めた。
 

実施に向けて調べてみたら、親を亡くしたのは消防団員の子供たちだけじゃなかった。

最初に調べたら44人。

ところが、すぐに市役所の職員にも殉職者がいたことが分かった。

これまた葬式に行ったら、9歳と10歳の子供が「パパー」なんて泣いていて、本当に参っちゃう。。

この2人も当然、支援金の対象に入る。

だから条例を作る時、「その他、市長が認める者」としたんです。

そうしたら、まだもう1人いた。お腹の中に。それで全部で47人です。
 

子供を強くするには教育しかない。

今の日本社会は、やっぱり学歴ですから。

学歴というか学力と知識。

そのために子供たちが18歳になるまで毎月3万円ずつ払ったら、総額2億円くらいかかります。

この子たちを全員、大学に入れたい、できれば東大に入れたいと思って、今そのお金を必死に集めているところです。

 
次の市長がそう考えてくれるかどうか分からないから、俺が市長をやっているうちにキッチリお金を集めたい。

だって、任期の残り2年半やったら、俺はもう力尽きるだろうから。

[震災後の窮地で支えてくれた市長仲間]

震災直後には、「なんで俺、こんな時に市長やっているんだろう」なんて思ったりもしました。

けれど、そんなこと考えても仕方がない。

 
そんな時、全国にいる知り合いの市長たちに随分助けられ、励まされました。
 

例えば、沖縄県南城市や福井県敦賀市からたくさん救援物資をもらった。

ドカーンと寄越したのは高知県安芸市や京丹後市。

敦賀の市長なんて、10トントラックの助手席に乗って自分で支援物資を持ってきたんだから驚いた。
 

車がないから中古車をくれと頼んだら、沖縄から軽自動車が3台届いたし、つくば市からも中古車を3台送ってもらった。

おかげで相馬市には救援物資がかなり集まって、近隣の自治体にもガソリンや水を分けたりすることができました。
 

市長を10年以上やっているから、全国に友だちがいっぱいいるんです。

特に道路族と言うのかな、そのつながりが大きかった。

東京の人は道路なんて要らないと言うけれど、相馬市は3次救急が福島医大で、道路が狭くて救急車が通れない。

だから高速道路を造れ造れって言っているうちに、仲間がいっぱいできた。
 

東京の人が考えるのと違って、田舎には本当に道路が必要なんですよ。

人口が少ないから、道路にかける経費と人間の数を考えたら費用対効果がどうたらこうたら言うけれど、費用対効果だけで計れる問題じゃない。

 
そうやって道路建設を推進してきた仲間たちが、今回、バーッと助けてくれた。

国も県も何も寄越さなくても、地方から集まってきた。

本当に心から感謝しています。