2011.06.04
無力感と付き合うこと
原口さんの「手のひら返し」が酷すぎる、と話題に。岩永です。
やはり、昨日の不信任案については茶番という記事がほとんどですね。
確かに「何だそれ…」でありました。
まぁ、菅さん「辞めます」とは一言も言ってないですから。
「私がやる事やったら、その後の責任は若いもんに任せる」
としか言ってない。
解釈のしようだという事か。
無力感なぅ。。
『無力感と付き合うこと』
「科学が発達した現代の人は、何でも思い通りにコントロールできると思ってしまう。だから、思い通りにならないものに対しては過剰に苛立つ」
というようなことを、河合隼雄先生がどこかの著書で書かれていた記憶があります(出典見つけられず)。
これは育児に関する話の中での言及でしたが、育児に限らず、あらゆる場面で思い当たる指摘でもあります。
個人の能力が拡張され、さまざまなものを高い精度でコントロールできるからこそ、コントロールできないものを許容しがたいと感じてしまう。
そして、コントロールできないものが許容できないとなると、人はそれを排除しようとします。
弱いものであれば叩いて従わせ、強いものであれ視界から外して関心をなくしてしまう、という形で。
社会・政治への関心の低さも、同じ「コントロールできないものが許容できない」ことから生まれているように思います。
そしてまた、関心を持たなくても何とかなる時代が続いてきていたし、今も物質的に豊かで、激しい危機感を抱かせるようなものは、あまり目に付きません。
だから関心を持たないことがマズイと感じられにくい。
仮にも選挙権を持った人間が、政治を「コントロールできない」と考えるはひどい話だ、ということでもあるんですが、とはいえ、たった1人の投票が直接ナニを変えるもんでもない、というのも確かで、しかしまた、1人が変わらなければ全体も変わるわけがない。。
改めて考えてみると、1人の力では簡単に動かし得ない巨大な組織に対し自分の声を届けていくためのノウハウを、まるで知らないことに驚きます。
システムの知識はあっても、どのくらいの期待値を持って、どのように訴え、大抵はろくな成果が上がらないであろうことをどう受け止め、どう無力感に耐え、次に繋げ、そうした中で少しずつでもゴール向かっていくにはどうすればいいのか、といったあたりが、よく分からないことに気付きます。
とはいえ、どこかから名回答がやってくるようなものではないでしょう。
物分かりの良い奴っぽい結論にしたいわけではないのですが、自分の力はそんなもんに過ぎないことに絶望せず、関心を切らず、容易にはコントロールできないものにも目を配り、しつこく行動を続けるしかないのだろうと思います。
力不足を感じることはあっても、何かをした結果が全くのゼロということはないはずです。
まさに諦めたらそこで世界終了といいますか、勝つまでやめなければ勝てるんだと言いますか。
そんな感じでひとつ。