2011.06.04

ぼくらはそれでも肉を食う

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林さんとライス国務長官が結婚したらハヤシライスになるの? 岩永です。

「動物を擁護したり、養殖して食べたり、人間ってなんなの?」

コレは誰もが一度は考える問題では?

『書評・僕らはそれでも肉を食う。(人と動物の奇妙な関係)』

人間と動物はこんなに深く関わってきたのに、知らないことばかりである。

動物との関わりを通してみえてくる数々のジレンマ。

それ等を考察した「人類動物学」という学問をテーマにした一冊。

はたして、動物の権利というものを考える時に、「捕獲」「処分」「管理計画」と「殺戮」「大量虐殺」「残虐行為」の線引きは、いったいどこにあるのだろうか。

最も多く議論されてきた問題は、食用犬を巡る論争であるだろう。

イヌを食べることに対するタブーはふたつの正反対の感情から生じている。

アメリカ人やヨーロッパ人は、イヌを家族の一員と扱っているがゆえにイヌ肉を食べない。

一方、インドや中東の大半ではイヌは卑しい動物とみなされ、その不浄さゆえに食べられることはない。

今でもイヌ肉が大人気なのは、韓国や中国である。

ここでも中国では冬の食べ物、韓国では夏の食べ物とされているなどの違いがある。

そして、韓国において食用犬として人気があるヌロン犬は、ペットにはならないなど、社会的に線引きするような仕組みもあるという。

そのあり方に賛否はあれど、考古学的な証拠によって、人間は何千年もイヌを食べ続けてきたことがわかっている。

また、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』で有名になった「トロッコ問題」に関する言及も興味深い。

[トロッコ問題]

暴走したトロッコが五人のほうに向かっている。

あなたは軌道にかけられた橋の上にいる。

となりにはまるまる太った男がひとり。

この男を橋から突き落としてトロッコの軌道に放り込んでやれば、五人を救える。

さて、これは道徳的に許されるだろうか?

通常のトロッコ問題では、一人の人間と五人の人間を天秤にかけている。

これを、男性と五頭のゴリラ、見知らぬ男性とあなたの飼いイヌなどに問題を置き換えると、回答がどのようになるかという考察である。

この場合、人間同士を問題にした場合とは異なる結果が導かれるケースが多く、ほとんどすべての被験者が、人間を優先的に選択したという話が紹介されている。

人間は自分達の利害をほかの生物種より上に置こうとする道徳的文法を生まれつき持っているということなのだ。

このように動物をめぐるさまざまなジレンマを考察するということは、人間自身をより深く知るということにつながることでもある。

そして、そこで明らかにされるのは、人間という存在そのものが矛盾をはらむものであり、動物をめぐる道徳心にも、一貫性を見出すことはできないということである。

人間だけが絶対的な高みに立って、動物たちを線引きをすることなど到底できっこないのである。

人間もまた動物界における相対的な存在として、混沌を受け入れていかなければならない。

動物を巡る価値観の違いだけで、誰かを非難する資格など、誰もが持ちえないということなのである。