2011.06.06
「言葉がない」を大事に
「息子に恥かかせたい」毎日違うコスプレで子どものスクールバスを見送るお父さん。岩永です。
「言葉がない」ことを大事にしようと思った。
前に進むために「少なく言う」ことにしました。
とても平易な言葉の端々から漏れ出てくる、スマートな力強さ。
「少なく言う」はとても難しい。
糸井重里さんの「ぼぼ日刊イトイ新聞」より。
『「言葉がない」を胸において』
2010年の6月6日から、一年が経って、
「なにごともなくてよかったなぁ」と、
2011年の正月あたりには、言うつもりになってました。
いいお天気ですね、というような、いつもの挨拶です。
しかし、それは3月11日の午後までの予定でした。
あの日は金曜日で、翌日は土曜日、その次の日は日曜日。
もうひとがんばりしたら、週末の休みだという思いで仕事をしていましたっけ。
そこからのことは、あえて省略しましょう。
大きく変わるもの、変わらないもの、
たくさんのことが、いまも継続中の問題になっています。
ぼくも含めて、「ことばがない」ということばが、
これほど何度も使われたことはなかったと思います。
「ことばがない」とは、
言うべきことが、わからない。
じぶんがなにを思っているのか、つかみとれない。
そういう意味を持っています。
たいていのことは説明可能だとばかりに、
根や幹のないことばをやりとりしていた人々が、
ついに、ほんとうのことを言ったのかもしれません。
「ことばがない」と言うようなことは、
それまでにも、いっぱいあったのだと思います。
こころってやつは、そんなに簡単には、
ことばを探せないものなのです、おそらく。
ぼくも、もちろん、「ことばがない」状態でした。
そして、その「ことばがない」ということを、
大事にしなくてはいけないと思いました。
ことばにならないことを、
なにかわかりやすい「仮のことば」に乗せて、
闇の中を走ってはいけないと考えたのです。
わからないことだらけ、思ったこともないことばかり。
そのことを胸において、
それを土台にして、ことばを使おうとしました。
でも、やっぱり、ことばを使わないと、
ぼく自身や、ぼくの周囲の人たちが、
どこを見て、どうしていけばいいのか、
前に進むための目印がなくなってしまうと思ったので、
できるだけ「少なく言う」ことにしました。
遊びのためのことばは、いくらでも言えばいいのですが、
「少なく言う」ことは、
それまで意識したことがなかったので、
なかなかむつかしいことでした。
たまに、その約束をやぶってしまったかもしれません。
そんなふうなことを考えながらも、
ことばのお世話にならなかった日はありません。
ありがたいなとか、こわいなと思いつつ、
ずっと、やっと、ことばを使ってきて、
6月6日の、この日を迎えました。
ほっとはしてませんけど、ずいぶんうれしいです。
いつもの年と、やっぱりちょっとちがう挨拶になりました。
もっと別の言いたいこともありそうですが、
それはいいや。
毎日の「ほぼ日」で、見ててもらえばいい。
ともかく、ぼくも、ぼくらも、元気です。
元気で13周年の日を迎えられました。
元気なじぶんがいれば、まずはなんでもできる。
そこにある、ありあわせのもので、
けっこうなことができるものです。
たいしたことないわたしと、
とるにたらないなかまとで、
案外、いけるものだということも知ってます。
できるだけたのしく、やっていきます。
そして、毎日言ってますけれど、
「ほぼ日」に集ってくれる人たち、
ありがとうございます。
「ほぼ日」というこの場所にくるのが、
ぼくも大好きです。
13年間も通い続けて、まだまだおもしろいもの。
来年、2012のこの日には、ぜひ、
なんか、大笑いとかしてみたいなぁと思ってます。