2011.06.08

忘却の病

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衝撃すぎるチリの火山噴火の写真。岩永です。

私達は「無かったことにしたい」のではないか?

「変わる」のではなく「戻ろう」としているのではないか?

それはつまり、復興への現実的なアクションというよりも、むしろ価値基準のことだ。

我々の価値基準はあの震災を機に、変化し、進化しようとしているのではなく、

再び退化を始めようとしているのではないか?

恐らく多くの人が心のどこかに感じとっていた今の空気に言及した良記事。

『忘却という名の病(プロデューサー・おちまさと)』

あれから3ヶ月。

あれからのあれとはもちろ3.11

『東日本大震災』

のことである。

しかし
今の日本は正直こう説明しなければもはや、

「あれからって何からだよ?」

と突っ込まれかねない空気を感しでしまう。

思えば、

衝撃映像のリピート。

余計な使命感によるデマの拡散。

境界なき不謹慎の地雷。

譲り合う被災地、奪い合う東京。

競い合うような義援金ランキング。

一億総似非放射性物質評論家状態。

それらは熱情のように燃え上がった。

かのように見えた。

しかし、現在はどうだろうか。

もはや、全ては3.10状態に
戻ろうとシフトチェンジしているかのように見える。

この事はあとで詳しく書こうと思う。

私は3月12日のブログから繰り返し、今回の大震災に最も必要なことは、

「継続」

であると書いて来た。

日本人は「続いてのニュース」に弱い。

瞬間的な正義感で、その場の感情を抑えることなく、ブログに地震や原発の情報や自分の気持ちを落ち着かせることを第一優先に書き綴ったり、咄嗟な勢いで駅前に募金に立ったりした影響力がある方々も、今ではもうブログも、

「続いてのニュース」

に話題は掻き消されている。

たった3ヶ月でである。

というか3ヶ月ももたない。

被災者の方々、避難所で暮らす方々。

など被災地ではあれから3ヶ月
厳しい現状は変わらない。

もしかしたら、悪化しているところだってあるはずだ。

「時間」=「改善」

ではなく

「時間」=「悪化」

という場合だってある。

今回は、被災という一言では語れない。

天災により家や家族、そして仕事までもが奪われただけでなく。

さらに人災により空気も水も電力もというインフラさえもが
遮断されてしまった方もいる。

それだけではない。

目の前に迫る今日の食糧や病気や排泄など、現実的な圧迫。

こうなることは3月11日の段階で想定内であり12日の原発事故により「長期戦」などという生易しい言葉では語れなくなり、

最重要課題は

『継続救済』

となった、はずだった。

こういうことを書くと

「そんな事を書いている暇があったら被災地に炊き出しに行け」

という空気もある。

その「救済」=「炊き出し」
という流れも画一化されない方がいいのではないのだろうか。

「炊き出し」は素晴らしい行為である。

しかし

「救済」=「炊き出し」

と画一化しすぎるのは「継続」を主軸にする場合論点がずれてしまうのではないか。

私は3月14日に

『不謹慎とは何か。』

というブログを書いた。

ただでさえ日本は

「未曾有の不景気」

という経済破綻が囁かれている中、必要以上の

『不謹慎の空気』

で経済が停滞することこそ結果、被災地の復興を遅らすことになり、「継続」を怠らせることに繋がると思い、

「とにかく働ける人間は働くしかない」

と書いた。

「不謹慎の向こう側には労働者がいる」

ということを忘れないことが、未曾有の不景気に起こった
未曾有の大震災を、継続救済していくことに繋がると思ったからだ。

しかし、3ヶ月が経ち、ここに来てその

『不謹慎』

の意味合いがさらに

「おかしな融解」

を始めている気がする。

それは、一言で言えば先程触れた、

『3.10状態への帰還願望』

とでも言うべきか。

「日本人は変わることが苦手」

である。

私は、今回の大震災であらゆる日本の価値観が劇的に変革していくことこそが、今回亡くなられた多くの犠牲者の方々のある種の弔いだと思っているし、大きく日本の舵がきられ、日本人の価値観という年表に大きく刻まれることとなると信じていた。

その価値観とは、画一化された幸せを計る

「幸せ定規」

の長さが、個々の長さになるなど、既成概念の崩壊や、右へ倣えの終焉など。

しかし、日本人は変わろうとしていないのではないだろうか。

変わるどころか

「3.10状態への帰還願望」

をとても感じてしまう。

早くあの頃に帰りたい。

「果たして日本人にとって
3.10は幸せだったのだろうか。」

そんな疑問には目もくれず、、

当初は熱情のように盛り上がっていた震災や原発へのベクトルも

「続いてのニュース」

や、御都合主義の自己メリットに上書きされて、

大震災は忘却の彼方へ葬られようとしているような気がしてならない。

そして、

「自粛するべきものは自粛されず、自粛されなくていいものは自粛される」

という

『不謹慎の液状化現象』

により、溶解は恐ろしい程に分裂と乖離をし続けているようにも見える。

それも全て

この最悪の事態を
打破するために

「変わる」

のではなく

「戻る」

そのために、必死に辻褄を合わせようと、絡まった紐を強引に解き、

結果、奇妙な造形物が出来上がったにも関わらず、それを見て、

「戻った戻った」

と言っているようにも見える
気がする。

「継続は力なり」

という言葉がある。

とてもいい言葉だとは思うが
私は単なる「継続は力なり」
では、

「現状維持」

となってしまうのではないか
と思っている。

私は

「進化する継続は力なり」

という言葉を自分で作って座右の銘にしている。

「進化」「変化」

がなくして
「継続」はあり得ない。

特に今回のような誰も体験したことのない未来に立ち向かっていくには、恐れずに変革することが重要な気がする。

「戻る継続」

ではなく

「変わる継続」

これしか

「忘却という名の病」

の処方箋はないのではないだろうか。