2011.06.14

村上春樹様へ

札束.jpg

 

壁一面にお札を貼り付けたアート作品「10万ドルの部屋」。岩永です。

 

賛否の別れたカタルーニャでの村上春樹氏のスピーチ。

その村上氏へあるブロガーが寄せた投稿。

「長期的な脱原発」が、たぶん最も現実的な路線なのだと思う。

しかし、クリーンエネルギーへの転換が本当に人類が目指すべき道なのだろうか?

原発はホントに無くすべきなのだろうか?

すべての選択肢には負の面があることを認めないことこそが、現実逃避なのではないか?

「原発は非道徳」という現在の多くの流れに石を投じることも「義務」なのではないか?

「『恐れること』そのものを恐れよ」

あぁ、分からない、コレはホントに分からない。

今、私達には「混乱」こそが最も必要なモノなのかもしれない。

再びゼロからのスタート。
 

『村上春樹氏の手紙に代えてーー馬場正博』

(全文はこちらからhttp://news.livedoor.com/article/detail/5630620/

私たちは間違った道に迷いこんでしまったのでしょうか。

別の道は探さなければならないのでしょうか。

道が見つからなくても、せめて道を引き返すことが分別というものではないでしょうか。

原発事故という現実を目にして何もしないでいるほど私たちは愚かではいられません。

今は原発の存続を言うことの方が「夢想家」かもしれません。

避けられない危険、積み上がる放射性廃棄物、得られるものは多少の贅沢と快適さ、失うものは未来、何をもって私たちは原発を使い続けると言えるのか。

しかし、いや、だからこそ、私は原発の中に核兵器を見てしまう、原発を「過ちは繰り返しませんから」という誓いと祈りを台無しにする不道徳なものと考えている人々に「それは違う」と言うことも義務ではないかと思います。

人類文明はいつもエネルギーとともにありました。

火は人類をか弱いサルから地上最強の獣に変えました。

産業革命は石炭の利用から始まり、20世紀の文明と科学は石油と堅く結びついていました。

それは今でも続いています。

化石燃料が広範囲に利用されるまで、最大のエネルギー源は森の木でした。

森が失われるとともに多くの文明が消え去っていきました。

イースター島の巨大なモアイ像の群れは、かつてそこに存在した文明の生み出したものです。

閉ざされた小さな島での争いと森林資源の枯渇がその文明を滅ぼしてしまいました。

その中で「効率」への批判は危険な罠です。

効率を求める文明は戦争の悲惨さを拡大してきましたが、同時に医療を始めとした様々な文明の産物は人間の生活を向上させてきました。

人間にとって何が幸福かを決めるのはたやすいことではありません。

しかし、清潔で豊富な水の供給が伝染病を劇的に減らし、それが産業革命以降の電気やエネルギーの発達によって得られたものだということを見るだけでも文明の果たした役割を否定することはできないはずです。

世界を飛び回りネットを通じて誰とでも会話ができる。

人類文明が積み上げた高い塔の上に私たちはいます。

本当は文明に二つの顔があるのではありません。

文明を作り出し利用する人間に愚かさと賢さが同居しているのです。

人間の持つ愚かさを恐れるあまり、文明とその本質である効率性を否定することは賢い行いとは言えません。

人間は賢く文明を利用する力も与えられているのです。

原発を捨て去ってしまうことが、人類にとって賢い選択なのでしょうか。

結論を出す前にいくつかの現実を見つめ直すことが必要です。

それは負の側面を持っているのは原子力だけはなく他の文明、技術も同じだということです。

原発は発電量当りの死者の数では依然としてもっとも「安全」と言える電力です。

風力発電でさえ保守や倒壊で死者が皆無というわけにはいきません。

こんな算数をすることは狂気の沙汰でしょうか。

しかし、一度の原発事故が日本を人の住めない土地に変えたり、桁外れの死者を出したりするのでなければ、計算することすら不道徳とまでは言えないのではないでしょうか。

原発は核兵器ではありません。

原発を核兵器と同一視するのはトラックと戦車を同一視するのと同じです。

技術基盤は共通していても目的も性質もまったく別物です。

一方は安全性をできるだけ高めようとし、もう一方は殺戮力をできるだけ高めようとする。

似ているところはあるとしても違いは無視できるようなものではありません。

私は原発廃止を訴えることが「非現実的な夢想家」だとは思いません。

また、原発を支持し続けることが唯一の現実的な解だとも思いません。

現実的でないのは、すべての選択肢には負の面があることを認めないことだと思います。

人間の愚かしさには底知れないものがあります。

けれども賢さは最後は愚かさに勝ってきました。

いま私たちがいるのは人類の賢さのお陰です。

逆ではありません。

しかし、いつどんなところでも賢さが勝利を収めたわけではありません。

イースター島は違いました。

優れた文明や技術は失われ、残ったものは数分の一になった人口とモアイ像の群れだけでした。

原発は人間が生み出したものです。

悪魔の贈り物ではありません。

原発を作りだすことができた人類は原発をより安全なものに進歩させることもできるはずです。

原発事故は恐ろしい。

しかし恐れるあまりすべてを投げ出し選択肢の外に放り出してしまうことは賢いこととは思えません。

ルーズベルトが言ったように、

 

 

「わらわれが恐れなければならないのは、恐れることそのもの」

なのではないでしょうか。