2011.06.28

悪魔祓いの国・ニッポン

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コレはヤバイぞ… ペリカンが恐るべき場所に立ってる。。岩永です。

問題から目を逸らし、

「悪魔祓い」

で気持ちの整理をし、その場しのぎをする「クセ」が、日本人にはあると思うと。

今こそ根本的な問題に目を向け、あえて困難に飛び込む覚悟が必要ではないかと。

『悪魔祓いの国・ニッポン』

戦後ニッポンは「悪魔祓いの国」であったが、ここ数年はその傾向をさらに強めている。

問題が起きると、問題の存在そのものを見なかったことにして、問題を解決したつもりになる。その結果がこれだ。

「トヨタ自動車の豊田章男社長は10日、記者団に対して『安定供給、安全、安心な電力供給をお願いしたい』

と訴えた。

円高に加えて電力不足が広がる現状に、

『日本でのものづくりが、ちょっと限界を超えたと思う』

と危機感を漏らした。
 
東日本から西日本へ生産や事業を移す動きを進めている企業も動揺している。
 

NTTデータは、首都圏のデータセンターにある自社のサーバー数千台を関西地域のデータセンターに移転させる計画だったが、関電の節電要請を受け、

『今後、海外を含めて移転先を再検討する』としている」(読売新聞)

 

日本企業も含めたグローバルな資本を呼び込めるように、さまざまな制度、インフラを整備しなければならないということは、10年以上前からずっと言われてきた。

これは、

「グローバリズムなんてアメリカニズムに過ぎない」

とか

「日本には日本のやり方がある」

といった、呑気なことを言っていれば済む問題ではない。

アジアだって中東だって、当たり前に国家間競争、都市間競争をやっている。

トヨタやNTTデータの

「対日投資からの撤退」

は、序章に過ぎないと考えるべきだろう。
 

あれだけの事故があったのだから、原発のリスクを再点検するのは当然だ。

しかし、それは原発を即時停止することを意味しない。

経済や生活環境への配慮をしながら、余裕を持って電力を確保しなければ、それこそ失業増や所得減を引き起こすし、熱中症などによる健康被害も発生しかねない。

問題に優劣を付け、時間をかけて漸進的に行動することこそが、正しい問題解決の作法だ。
 

ところが、戦後ニッポンの悪弊として、何か問題が起きると、漸進的で苦しい問題解決から逃げて、「悪魔祓い」に走る傾向がある。

「悪魔祓い」は、問題の存在そのものをなかったことにしてしまうから、利害関係者の調整も不要だし、誰かが憎まれ役になることもない。

すべての日本人が「悪魔祓い」によってスッキリすることができる。

少なくとも「悪魔祓い」を主導する張本人は無意識にそう感じるからこそ、安易な道を選択する。
 

ただ、そんな「悪魔祓い」は目先のゴマカシに過ぎないから、当然のことながら、様々な問題が新たに発生する。

それでも、「悪魔祓い」をした張本人は既に勝手にスッキリしてしまっているので、新たに発生した問題には興味をまるで示さない。

仕方ないから、別の責任感のある人たちが、「悪魔祓い」をくつがえさない範囲で、せっせと問題解決を図り、世の中は再び回り出していく。
 

戦後ニッポンが最初に行った「悪魔祓い」が、反戦平和である。

普通なら、戦争に負けた場合(いや、勝った場合でも)、

「日本はなぜ戦争を始めたのか」

「どうして戦争に負けたのか(勝ったのか)」

「戦争の前提となる国益追求の目的は達成されたのか」

「そもそも、明確な目的があったのか」

といった問いかけをして、問題があれば、それを解決するために戦略の見直しや、軍備を含む制度の改革を行う。

しかし、戦後ニッポンは、地道な改革を放棄し、軍備そのものを捨てるという「悪魔祓い」を行った。
 

言うまでもないことだが、

「軍隊がなければ平和だ」

という念仏では、国際紛争は解決しない。

日本は朝鮮戦争でそのことを否が応でも思い知らされ、再軍備をすることになった。

その際、反戦平和という「悪魔祓い」をくつがえさないように政治的な配慮がなされ、

「軍隊ではない警察予備隊」

ができ、後に自衛隊へと改組されていった。
 

戦後ニッポンの、とりわけ55年体制において有益な政策論争が成り立たなかったのは、片方の陣営は「悪魔祓い」にしか関心がなく、残る一方は一方で、

「悪魔祓い」を真正面から批判することなく、裏で尻ぬぐい的に(悪く言えばコソコソと)問題解決を図ってきたからだ。

そういう構図では、理想主義的なコドモはオトナを批判し続けるだけで、何も成長できない。

オトナはオトナで

「くそリアリズム」

に陥って、コドモには何も言わず、苦笑しながら現実を棚の裏に隠すようになっていく。

冷戦が崩壊して、コドモ・オトナの不毛な構図も消え去るかと期待されたが、今回の原発事故で、亡霊のように「悪魔祓い」が現れた。
 

もっとも、「悪魔祓い」復活の前兆はあった。

2008年の派遣切り騒動がそれである。派遣切りは、正規・非正規の二重構造問題が背景にあり、それを解決するためには、雇用における日本型システムを見直さなければならない。

日本型システムを見直そうと思えば、年配の正社員には大きな痛みを与えることになるし、1960から80年代の

「古き良きニッポン」

を夢見る若年層からも「希望」を奪うことになる。

それでも、今さら実現できない「希望」を若年層に抱かせ、年配層の既得権を護持する政策を続けていては、派遣切り騒動は何度も繰り返される。

日本型システムの見直しは、問題解決を真剣に考える人たちからすれば、必然的な急務であった。
 

ところが、既得権を奪われたくない人たち、あるいは既得権層と衝突したくない人たちは、

「派遣切りをなくすには、派遣という制度そのものをなくしてしまえ」

と結論付けた。

派遣という制度をなくしたところで、正規・非正規の二重構造が残っている以上、今度は請負やパートを対象に新たな問題を引き起こすだけである。

または、非正規にすらなれずに、長期失業者が増えていくだけなのだが、「悪魔祓い」を前にしては、そういう地味な声はかき消されてしまう。
 

厄介なのは、この手の「悪魔祓い」は、素朴な「善意」から行われるものも少なくないということだ。反戦平和も反派遣も反原発も、

「善良なニッポン人」が多く加わっている。

しかし、その「善良」とは、

「リスクを取りたくないから善良」

「嫌われたくないから善良」

という以上の意味を持たないのである。